正 体 は ? 5 ・ 『 欲 』 の 想 念
これまでも、一般的な時間や空間・限定された言葉の世界など全く父には関わり無く通用しない、またそういった素晴らしい世界が父にはある、そう感じることが私には度々あった。そう考えたとき、夜の10時半、私に聞こえたあの音の【正体は?】
それは、【『父の物欲・所有欲』そんな想念(思いの力)の為せる業】。『欲』の残像に操られる体(意識)、肉体無くとも想いは動く。あの時、父の肉体は実際横たわり眠っていたが、父の意識は起きて活動していたのだと、私は思った。それほどまでに、人の想念(思いの力)は強いのだ。
私自身、『欲』というものは(良くも悪くも)人間の原動力となる素晴らしい源であると思っている。あって当然の源であり、逆に無いと、人間としての貴重な体験が出来ないことにもなる。しかし、終わり無い満足感と充足感を味わうための『欲』の働きは、人の心を麻痺させる。『欲』に翻弄された心とその行動は、やがて執拗で偏狭的なものとなる。
『自分の物は自分の物・人の物も自分の物』という子供らしい『物欲』を表現しつつ『宝探しゲーム』をする父の姿は、それでもまだ微笑ましいものがあった。しかし、『物欲』に対するフラストレーションを高めていった父は、『宝探し』でのワクワク心やドキドキ感という『楽しさ』を感じる『心』よりも、『欲そのもの』にイニシアチブを取られ、それのみの惰性的な力によって動かされているように感じた。探しているもの自体が『何か』さえも分からなくなり、ワクワク感などの『楽しさ』や自分好みの『お気に入り』など、もうどうでもいいといったように見えた。ただ『欲』を刺激するためだけの『何か』を求め続け、落ち着きなく動き回る父の表情と行動は、今までの『楽しげな』とはかけ離れたところの必死の形相に見えた。実際、盲目的に『何か』を探す父の姿は、『欲』にマインドコントロールされた表情の無い人間のようで、正直私には笑えなかった。
父は私たちに教えて(見せて)くれる『欲』に翻弄された心とその行動は、やがて執拗で偏狭的なものとなる、ということを。こういった自分の姿を通じて、身に付けた病的な(現代病の)『欲』の塊を放棄するよう脱ぎ捨てるよう、父は私たちを導いているような気がした。
ブランド志向でも無ければ、衝動買いが決して多いわけでも無いが、自分の周りに溢れている『自分の物』を眺めたとき、私も『物欲』『所有欲』という現代病に罹っている、立派な社会の一員であると感じずにはいられない・・。
父の大事な教えを受け、今ある(与えられている)物を存分に生かし、人間本来の【必要なもの以上は必要ない】シンプルな生き方を私はしていこうと思う。
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