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  正 体 は ?  3 ・ 必 要 な も の 以 上 は 必 要 な い


 そんな歩みを進める父、母の衣類にまで手が伸び始めたことで、私たちが取った方法は引出し丸ごとの撤去だった。めったに父が立ち入らない別の部屋に、私たちは父が居ぬ間にそれらを移した。好奇心旺盛の父が、何かの拍子にその部屋をチラッと覗いて見つかるようでは、またイタチゴッコの繰り返しになる。念には念で、引出し丸ごと外から見えないよう工夫し隠した。引出しのあった元の場所には、父の「遊び道具」としてあまり使用していなかった一段収納の引出しを残し、本当に支障の無い物だけを入れておいた。
 父にとっての『宝箱』である引出しが、父の前から突然あとかたも無く消えてしまったことに、その場所を前に父は何度も立ち尽くしは戸惑っていた。『あれ〜?』  『おかしいなあ〜?』と、首をひねり訝る父には大変申し訳なかったが、私たち双方にとって、他にいい方法を見つけることは難しかった。
 引き出す『宝箱』が数段から一段に減り、今まで自由に発見し手に取ることが出来ていた『自分の物』が、父の前から一遍に消えてしまったことで、【引いては見つけ、見つけては移動させ隠し、隠したことを一旦忘れて探し出す】という楽しみと充実感が味わえず、父のフラストレーションは高まっていった。その結果、見た目にもはっきりと分かるほど、父は欲求不満を募らせ、乱暴な動作であちらこちらを物色し始めた。幼い頃の私が、同じ部屋の引出しに飽き別部屋の引出しへと移動したように、父もまた物色対象の空間や場所を広げていった。父の『宝探し』は広範囲へとわたりその激しさも増した。
 今まで(こっそりは開けていたけれど・・・一応理性が働いて)私の目を気にして堂々とは開けなかった場所、私の衣類を仕舞ってある空間にまで父の魔の手が伸びた。元々物持ちの良い私、そこには何十年前からの物も含め、たくさんの洋服がハンガーに掛けられてある。父の『物欲』と『物が溢れている』という意味から考えると、そこは父の『宝探し』には打って付けの空間かも知れなかった。私の物であっても、やはり黒やグレーといったもの『男っぽい』物に父は反応し、あわよくばそれらを取り出そうと躍起になった。
 『あそこ片付けなきゃなあ〜』などと思いながら放っておくと、決まってそれを刺激するような出来事を子供が引き起こす、というような事が私自身の子育て体験の中でもよくあった。『もう、あそこに手が届きそうだなあ』とか『そのままだとあれは危ないなあ』とか、そんな風に思っていると案の定、今まで手を伸ばしても届かなかった場所に手が届いたり、取り除いておくべき危険な物がある場所へわざわざ行ったりと、否応無しに片付けるためのきっかけを子供は作ってくれた。父の行動も、それに似ていると思える事が多々あった。
 私の何十年前からの物を一気に片すのはそれほど簡単ではない。納めるスペースや父の目に触れないように工夫する必要からも、それをするには量的に問題があった。父と母の衣類やその他の『物』そして自らの『物』でも思ったのだが、私たちは物質主義の買物病という現代病に冒されている気がした。家の中でも外でも、高くても安くても飽和した、『物』・『物』・『物』。『本当にこれは(こんなに)必要なのか?』と、父の対応に追われるたび疑問を持った。
 例えばシャツなどの場合、洗い替えと予備を含めて3枚あれば十分だ。上着となれば、一着もあればその季節は十分過ごせる。使い切ってから新たな物へ・・・。そんな本当の意味での、その『物』をちゃんと使い尽くすような生かし方を、私たちはしなければいけない、そんな風に思った。現代人の私たちは、余計な物を買い過ぎ持ち過ぎている。「もしも、何かあったとき・・」の、さらなる予備物を準備する、(削除)『取り越し苦労』も、一種の現代病だと私には思えた。
 そんな風に考えると、父の認知症の症状は、実は私たちの『物欲』『所有欲』という現代病の象徴のような気がした。自分の症状を通して、父は私たちに教えてくれる・・・【必要なもの以上は必要ない】と。




 
   
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