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  正 体 は ?  1 ・ 宝 探 し ゲ ー ム


 父は、引出しを引くのが大好きである。何度も引出しを引き、あちらからこちらへ、こちらからあちらへと物の移動を繰り返す。
 幼い頃の私にも覚えがある。引出しを引き、自分に関係するものや使えそうなもの、心ワクワクする自分好みのものなどが目に入って来る瞬間、何とも言えない喜びでちょっとばかしの興奮を伴った。だから、何度も引出しを引いた。同じ引出しに飽きると、別の部屋の引出しを引いて物色した。
 田舎の祖母の家に行った時には、真っ先に大きな机の引出しを引くのが私の楽しみだった。そこには、私が普段見ることの無い昔のものなどが溢れていた。叔父たちの若き日の写真や学生時代の通知表、使い古された文房具や古びたキーホルダー、重みある艶々した何かしらの部品など、幼い頃の私にはそれはまさに『宝箱』だった。
 大人になった今の私は、日常使う引出しの中身のほとんどを把握しているため、いちいちそのような興奮や喜びを味わうことはない。しかし、その時に何を入れたのか何を仕舞ったのかをすっかり忘れている事の多い、たまにしか使わない引出しや奥に仕舞ってある衣装ケースなどはちょっと違う。久しぶりに引いたり開けたりすると、思いがけない代物に出くわすことがある。「なーんだ!こんな所に入ってたのか!」とか「うわー!こんなの持ってたんだ!」とか、ずっと探していたものや、一度も使わず忘れていたものなどとのご対面に、妙に感動したり嬉しかったりすることがある。
 今さっきの記憶を保てなくなりつつある父。そんな父には、さっき引いたばかりの引出しであっても、新たな喜びと興奮を味わえる『宝箱』なのである。そんな意味からの、父の『宝箱』を探る楽しさについては、私にも理解が出来る。しかし、父の『宝探し』の現場は引出しだけではない。
 ソファーと壁との隙間や、置いてあるクッションの下、押入れの奥底や、たたんである布団と布団の間、本棚の見えにくい上部やカーテンの裏側など、至る所が宝の隠し場所でありまた探し場所である。手に取った『お宝』を、父はそういった場所に移動させ『隠す』、そしてそのこと自体を一旦忘れて、今度はその『お宝』を再び『探す』のだ。繰り返される『宝探しゲーム』。
 自分が隠した『お宝』を発見し、『ウワー!こんな所にこんなものがあった!』というように、喜ぶ父の姿を観察していると、私の頭にいつも浮かぶことがある。それは、ピラミッドなどの発掘現場での『お宝探し』である。この場合の『お宝』とは、金銀財宝のことだけではない。訳あって簡単に誰かに発見されないよう、過去のその時代に手を尽くし隠したであろう、場所や空間、物や人、祈りや知恵・・・云々。
 父は自分が隠したものを探し出す、自分が隠したことを一旦忘れて。現在の今、現場を発掘している人は、実は一旦忘れているだけじゃないのか?・・・見つけるという喜びを体験するために。
「遥か昔、本当は自分が隠して埋めたくせに!」と、私はいつもそう思ってしまう。
 輪廻転生を繰り返す人生ゲームの中、過去世において自分自身で隠し埋めたものを、生まれ代わって現世の自分が探し当て掘り返す『お宝』。
 「何となくこの場所に埋まっている気がするんですよね」とか、「この方角から考えると必ずあそこらへんにあるはずなんです」とか、TVの中で発掘者が言う。勘なのか論理的な計算なのか知らないが、実際発掘作業が進展して成果を上げ、ワクワク心で喜ぶ発掘者を見るたびに、父の『宝探しゲーム』と重なって見える私は、心の中で突っ込んでしまう。
 『そりゃそうやん!アンタ自分で埋めたでしょうが!』『自分で設計して隠してんから、場所知ってて当たり前やん!』『一旦忘れてるだけやっちゅうねん!』と。




 
   
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