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  ま だ 出 来 る ん や で ー !


 山の稜線を下って進行していくような、父の『変化』。そんな最近の加速度的な父の『変化』について、デイへ行っている父のいぬ間に、その日私は母と二人話しをしていた。
 基本的には、『忘れていくのが当たり前、出来なくなるのが当たり前『人間が枯れていく過程で脱ぎ捨てていく自然な姿』、だから『あれもこれも出来なくなった!』ではなく『まだ、あれもこれも出来る!』なんだと、常に私の中心にはその思いがある。
 しかし、現実生活の中において、父の現象的な姿を目の当たりにすると、「あれが出来なくなった」とか「これが出来なくなったとか」、私もついつい口にしてしまう。もちろん、口に出すことで、父が今『どこに位置していて、どんな段階で、どんなことが出来なくなっているのか』という、家族一致の確認にはなるけれど・・・。
 その日、母との話題は、夜の散歩(徘徊)運動が増えてきた昨今の父について。父にとって十分な熟睡をした後、夜中にシャキーン!と目覚めてしまった父は、電灯の付いていない薄暗い部屋の中を散歩(徘徊)運動する。我が家にある電灯は昔ながらの紐を引っ張る式のもの、付け方を覚えていれば父でも点灯可能なはずである。しかし、連日連夜、父は電灯を付けないままで運動を続けている。もしかしたら、寝ている(寝たふりしている)私たちに一応気を使って電灯を付けないのか、それともただ、付け方が分からなくなっているだけなのか?
 「そう言えば、最近お父さん電灯自分で付けたこと無いなあ〜、付けられへんのかな?」と、私。
 「そう言われたらそうやなあ、もう自分では付けられへんのんちゃうかあ〜?」と、母。
 朝昼晩を問わず、残念ながら我が家において、父が紐を引っ張り電灯の付け消しする行為を、母も私も見たことが無かった。『電灯の紐を引っ張って付け消しする』ということが『出来なくなった』というのが、二人して一致した意見だった。
 夕方になり、いつものようにデイから父が機嫌良く帰ってきた。部屋に入り自分の居場所に座わった父は、しばらくするとウトウトとうたた寝をし始めた。今寝てしまうと、夜の散歩(徘徊)運動に繋がってしまう・・・『これはイカン!』と思った母は、「まだ日も明るいし、外の散歩に連れ出すわ!」と、台所にいた私に『こっそり』告げに来た。
 何故『こっそり』かと言うと、こちらの準備が整う前に父に言ってしまうと、喜び勇んでサッサと外に飛び出してしまうのだ。かと言って、「ちょっと待っててね」と玄関先でソワソワした父を待たせると、だんだんと不機嫌になる。そのため、出かける時にはなるべく、こちらの準備が完了した上で、【直前】になってから父に言うよう工夫している。
 しかーし、父は超人!ここでもテレパシーで本領発揮!?うたた寝しているはずの父のいる部屋へ行ってみると、父は慌てて起き上がりお出かけ用の帽子をかぶって身支度を整え、ちゃんと出かける準備をしていた。しかも、煌煌と付いていたはずの部屋の電灯はしっかりと消され、おまけにホカホカカーペットのコンセントまでもちゃんと抜かれていた。父がホカホカのコンセントを触ることなども、ここ最近見たことが無かった。なので母に確認してみたが、やはり母は電灯もホカホカのコンセントも自分ではないと言った。
 母が私に『外への散歩』を告げた台所は、父のいた部屋から一部屋離れ、更に廊下を隔てた場所にある。だから、そのことは絶対に聞こえない。『外への散歩』という母の思いを、父はテレパシーで察知したに違いない!しかも、昼間に話していた電灯についての私たちの会話まで・・・。電灯とホカホカのコンセントは、父がまだそれらに関して『出来るんだ!』ということを示した証。
 その日から、朝昼晩に関係なく、紐を引っ張り電灯の付け消しを見せてくれるようになった父。真夜中の丑三つ時の散歩(徘徊)運動も、今までの薄暗い中ではなく、煌煌と明かりが付けられて行われるようになった。その眩しさに、手をかざし床に横たわる私たち・・・。
 それは『まだ出来るんやでー!』と、父が態度と行動で示した、私たちに対する抗議のようだった。(うーん、じゃあ今までほんとに気を使って、わざと付けていなかっただけなのか??)
 兎にも角にも、「ホ、ホンマやね、ちゃんとまだ出来るんやねえ!」
 『まだ、あれもこれも出来る!』だね。失礼しました、お父さん!


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