僕
の ほ う が 強 い ん だ ぞ ! 2 ・ 『 敬 う 』 と い う 心
《『僕のほうが強いんだぞ!』『僕が一番強いんだぞ!』男の子が成長する過程で身に付け発揮する『やんちゃ』な側面、力強さを誇示したい自己顕示欲。》
それはある意味、この世この時代に男として生まれ、一家の家長として持つべきものだった『意地と誇り』でもある。問題は、その思いを私たちがどう汲み取り、どう表現(発散)させてあげられるか、そしてどう生かせるか。
このところ、父の怒りモードが続いていた。『僕のほうが強いんだぞ!』『僕が一番強いんだぞ!』と、父から感じた思いを私はじっくり考えてみた。
〜何故そんな表現をしたくなるのか?〜
父の『やんちゃ』な側面、そんなプライドを傷つけられた時、『僕のほうが強いんだぞ!』『僕が一番強いんだぞ!』と誇示したくなる。父に限らず誰だって、プライド(自尊心)を傷つけられると悲しくなるし怒りたくもなる。
私は、父に対する私たちの最近の態度について顧みた。そう言えば、母も私もみみかに至っても、父を誘導する時には「おいでおいで」「こっちやで」とか、何かを聞くときにも「○○かぁ?」とか、何かを促す時は「××しいやぁ」とか、あたかも子供を扱うような口調で接していた。子供のようになってしまった父に対し、おそらく気持ちの上でも私たちは父をそんな風に思っていたのだと思う。(少なくとも、私自身はそう思っていたし、そういう態度をとっていたと反省・・・)
確かに子供のような父ではある、しかし、決して子供ではない。父が身に付けたものを脱ぎ捨てて行くという症状や段階の過程において、「子供に帰る戻る」という意味を決して誤用してはいけないと思った。大人が子供を見るように、上から下を見る態度で接していた私たちに、父は少しずつ怒りを溜めていったのだろう。
こちら側が、父を一人の人間として『敬う』という心と態度を忘れていたのだ。
考えてみれば、これは父に対してだけでなく、誰に対しても最も大切で最も大事な、人間本来のコミュニケーションの基本であり基盤である。それに、父を通して感じていたことがある。私たち大人が子供に接する態度や姿勢、これまでの当たり前に思ってきた子育て方には、改めて正さねばならないことがあるのではないか・・・と。私はまた、父に教えられ、学んだ。父は私にとって、立派な教師である。
ちなみに、父との格闘はどのように終末を迎えたのかというと・・・。土俵の上から私を掴んで放さない父の腕に、みみかが泣きながらしがみついて「じいじ、もうやめて!」と何度か訴えかけた。みみかの声に振り向きもせず態度を変えない父に、みみかが再度父の腕を引っ張りながら「じいじ!もうやめようやぁー!!」と号泣しながら叫んだ。すると、父はみみかの泣き顔を見るなり、掴んでいた私の腕をパッと放し、「うん、やめよう」そう言ってみみかの肩に優しく手を置ききびすを返した。
私に対しての不完全燃焼と燻りが少し残り、思い出したように時にはコワーイ顔で私も見つめることもあったが、何とか父の怒りの炎もその後は鎮火に向かった。
みみかを孫≠セと認識し、カワイイ≠ニ思っている父。『僕のほうが強いんだぞ!』『僕が一番強いんだぞ!』という『やんちゃ』な側面剥き出しの時でも、やっぱり孫≠ノは弱い父でありました。
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