あ
な た は 私 で 私 は あ な た
この現象世界という舞台において、人はそれぞれの役割をそれぞれの世界で体験している。
そして尚且つ、私たちは自他一体。
大元では本来、全ては“あなたは私で私はあなた”の世界なのだと、私には思えてきた。
ある意味から言えば、私のために『私の役割ではない、私には出来ない体験』を『私以外の人たち』が体験してくれているのではないか?・・・そう私は思うようになったのだ。
そういった意味からすると、『イエスの体験』も『盲目的な愛に生きたあの女性の体験談』も、全て『私の体験』なのだと理解することが出来た。
そして、そう思うと私はあらためて、(私である)イエスに対して、(私である)その女性に対して、そして(私である)全てに対して、心から感謝の気持ちが湧いてくるのを感じた。
この世に起こる全ての出来事・さまざまな体験が、見る人によって如何ように見えようとも、それらについて裁く必要もまた裁かれる必要も本来ないのだ。
初めから終わりまで、本来罪などというものもなく【全ては赦されている】のだと、私は思えるようになっていった。
あの女性の体験談での行いについても、何も何者もそして彼女自身が彼女自身をも、裁く必要も裁かれる必要も無いのだと、私の思いは深まっていった。
それどころか、私は彼女の体験を通してたくさんの気付きを受け取り、【私自身の罪も無い】ということを学んだのだった。
それはまさに“あなたは私で私はあなた”という体験を通して得たものであり、彼女に対してあったのはただ「ありがとう」という感謝の思いだけだった。
ある意味、人間は全ての者/人類の代表選手でもある、そんな風に私は思うようになった。
そして、どんな人生であったとしても、与えられた人生をその人自身が味わって生きることが、その人の『使命』であり『個性』なのだとも思うようになった。
あの女性の体験談を通して、私の中の【罪という意識】が消えたように、私が私の『個性』を生き『使命』を果たすとき、私の体験を通して誰かが何かに気付き学ぶこともあるのかも知れない。
一人の人間が代表選手としての『個性』を生き『使命』を果たすとき、全ての者/人類に還元されるものがある。
例えば、私の内に抱える問題を外に出し浄化するに至ったならば、それは人類の内に抱える問題のひとつが提出され浄化されるということになるのではないか?
出す(与える)ということは、受け取るということ。
良いも悪いも自分を出す(与える)ということは、人類として受け取るということ。
“あなたは私で私はあなた”
どんな人間も間違いなく、人類の一人なのだから・・・。
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