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  犠 牲 愛


しかしながら、私自身の中にも『憐憫愛』や『犠牲愛』、はたまた『悲劇のヒロイン願望』といった存在を、やはり感じることも出来るのだった。
恐らくこういったものは、本当は誰しもにある共通のものなのだろう。

『犠牲愛』という言葉から、私の頭には磔になったイエス・キリストの姿が浮かんだ。
そして、『犠牲愛』から来る「・・・のためなら」「自分さえ・・・」いう大義名分の裏に隠された、人間の自虐的行為とも取れるものも私は感じた。
それは、人間の奥底の『悲劇のヒロイン(ヒーロー)願望』と深く繋がりがあるようにも思われた。

だが、私個人としては、イエスは磔になる際、肉体が全てではないことや、この世には【罪は無い】ということを教えようとしたのだと思っている。
そして、結果的にはああいった最期を迎えることで、彼は彼自身の人生を喜んで生き切ったのだとも思っている。
【彼は彼自身の人生を生きた】という見地から言うならば、彼に対してもまた憐れむ必要など何も無いのだ。
何故なら、イエスもまた【今ここに神の祝福を受けた存在】なのだから。

それに、『悲劇のヒロイン(ヒーロー)願望』でもって、あるいは人間の自虐的行為でもって、【罪なし】を説くあのイエスが『犠牲愛』を示したりするだろうか?
憐れんで欲しいと、『本当の愛』を知るイエスが、果たして思うであろうか?

人類のためという、崇高で魂的な目的はもちろんあっただろうが、「・・・のためなら」「自分さえ・・・」などという『犠牲愛』から、イエスは自分の身を捧げたのでは決してなかっただろう。
彼は、私たち人類を【今ここに神の祝福を受けた存在】として『本当の愛』で愛してくれたのではなかったのだろうか?

彼のその最期の行為を、受け取る側の人間たちが「私たちのために犠牲になった」「私たちの罪を彼が代わりに贖ってくれた」という受け取り方をした。(もちろん、大きな意味ではそうかも知れないが・・・)
しかし、それは受け取った側の(犠牲になってくれた者へ対しての)「申し訳ない」という気持ちを芽生えさせ、罪の意識さえをも持つことに繋がってしまう。
それでは、【罪無き】ことを教えようとしたのにも関わらず、彼の行為は(ある意味)罪を生み出すことになってしまったことになる。

私たちを『犠牲愛』というものではない『本当の愛』で彼が愛してくれたように、私たちも『本当の愛』で彼を愛すべきではないのだろうか?
「私たちのためにごめんなさい!」ではなく「私たちのためにありがとう!」と、彼から受け取った『本当の愛』に対して、心からの感謝の言葉に代えて『本当の愛』で返すべきではないのだろうか?

私たちは自他一体。
そして、それぞれがそれぞれの世界での主人公。
目の前で起きていること、見える姿、そういったものから何を感じ何を受け取るかは、あくまでも受け取る側の問題なのだ。
それが目を背けたくなるようなことであっても、そこから発してくれたメッセージを自分が受け取ったとき、その相手に対し【今ここに神の祝福を受けた存在】として認め感謝し、『本当の愛』をお返しすればいいのだと私は思った。
『犠牲愛』は本来ないのだから、受け取る側の「ごめんね、私のために・・・」などという罪の意識から来る言葉も、本来は必要ないと思うのだった。


 
   
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