憐
れ み の 心
女性が女性特有のものを表現するということは、とても素晴らしいことだと思う。
受け入れるという柔軟性、包み込むという優しさと温かさ、母親のような細やかな心配り等など・・・。
これらはある意味、女性だからこそ出来る、そして女性にしか出来ない『愛』の表現なのかも知れない。
しかし、その『愛』は、憐れみや犠牲的な愛であってはならないのだと私は思った。
・・・女性特有の『受け身的行為』。
「愛してあげたい」という母性愛にも似た『憐れみの愛』。
「私さえ・・・」という『犠牲愛』に『悲劇のヒロイン願望』。
そして、女性的な優しさというか強さであり弱さでもある、好きでもない男性に『自分を捧げてしまう愛』・・・。
そこには、『私が』という人間の我の心を感じる。
それはまた、祈りの場で以前感じた『鳥かご』の要素も孕んでいるようにも思えた。
結局のところ、自我の心で人を救うことなど決して出来ないのだから・・・。
人を思いやり、人のために尽くすということは、確かに尊く美しい行為である。
しかし、『憐憫愛』や『犠牲愛』はそういったものとは明らかに違う気がする。
そもそも人を憐れむというのは、一種傲慢な行為とも取れないだろうか?
極端な話、「可哀想な人だ、不幸な人だ」と相手を憐れんで情け心を出しその人を愛する。
それは、相手に対してとても失礼なことかも知れない!
仮に、「私は可哀想な不幸な人間です」とその人自らが宣言し、救いを求める手を差し出すのならば、一人間としての思いやりの、助けとなる救いの手を差しのべることは出来るかも知れない。
でも、他人の人生に対して「あなたの人生は可哀想である不幸である、助けてあげましょう」と、勝手にその人の人生を判断し、頼まれもしないのに押し売り的にするその行為は、果たして思いやりと言えるのだろうか?
もちろん、自分の目に映る現状に『何とかしてあげたい!』そう思う気持ちも分からないではないが。
そう言いながら・・・、振り返ると私自身もそういった余計なお世話的行為を、相手のための『愛』の行為だと思い込み、随分やって来たような気がした。
「可哀想な人、不幸な人」だと相手を勝手に判断して、憐れみの心で愛するよりも、どんな状況に置かれていても、どんな風に見えようとも、【その人は今ここに神の祝福を受け存在するのだ】と、私自らが祝福し祈り愛することが『本当の愛』なのではないかと思うようになった。
私が今の私になるために、今ここに存在するために、いろんなこと(苦しみも・悲しみも・辛い出来事も)が必要だったように、全ての人にもその必要があって今そう成り得ているのだと、私はいつしかそう思えるようになっていた。
そういった意味では、憐れむものなどこの世には何も無いのかも知れなかった。
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