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  死 ん だ 私


この場所を初めて訪れた時、実のところ私は死ぬ気の覚悟で臨んでいた。
死ぬ気の覚悟で真剣に・・・ではなく、その逆だった。

鉄の扉を閉ざしたままの夫に何を言っても何をしても、哀願する私の叫びや思いは届くことはなかった。
まるで、この世に存在していないかように、私は夫に無視され続けた。
もう二度と夫と一緒にいられないのなら、もう二度と夫から愛してもらえないのなら、生きている意味など私には無い・・・。
自分の身に起きている現実に、私は落胆していた。

それに、 宗教というものに対して何か偏ったイメージが私の中には強くあった。
そんなところへ救いを求めてしまうのは弱い人間のすることであって、心ならずも自分がそのような場所へ訪れようとしていることを、我ながら『墜ちたものだ』とどこかで思っていた。
友人のせっかくの付き添いにも、宗教に対する根強い偏見から、私はなかなか素直にはなれなかった。
そんな場所へ行こうとする自分自身を、私は心から手放しに許せなかった。
そんな心の中の葛藤から、『いっそ死んでしまおう』私はそう思った。

そう思うと、何故だか心が逆に軽くなり『どうせ死ぬんだから、そこへ行ってから死んだっていいや!』と、半分投げやりな気持ちになった。
しかし、今思うと投げやりなように見えても、これこそが私にとって【背水の陣を敷く】ということになっていたのかも知れない。

そこへの道中、私は自分がそこから帰ってからのこと・・・そう、死ぬことばかりを考えていた。
有り金をはたいて自分の気に入った服を買い、それを着て普段は泊まることの出来ない高級なホテルに泊まり、これまた高級な美味しいものを食べて・・・それからそれから。
死に方は、水は見られたものじゃないそうだし、首吊りも同じ・・・、自分で刺すのは痛くて無理だし、雪山なら綺麗なまま凍って死ねるらしい・・・等々。
そこへ行くことの逃避として、私は自分の死についてあれこれ考えながら・・・楽しんでいた!

思い返すと、盆暮れの田舎の仏壇やお墓に手を合わせたり、初詣の神社に参拝したり、たまたま仏教系の学校に通っていたり、挙式料が安いからとキリスト系の教会で結婚式を挙げたり、私と宗教との関わりは、全く一般的な表面的なものでしかなかった。
そういったことからすると、宗教という本当の意味自体を私は何も知らなかった。

そこへ到着した私は、真理の話や行事などを横目で見て鼻であしらい、聞き流すような横柄な態度を取っていた。
付き添ってくれた友人も、これには困惑し呆れた様子だった。
帰りの道中は、とても気まずい雰囲気の二人だった。
それでも、友人は私に「どうだった?」と聞いてきた。
それに対して私は、「うーん、ケッ!て感じだった」と答えてしまった。
ガックリする友人だったが、私はこのあと更に言葉を続けていた。

「・・・でも、もう一度来てもいいかなって思う」
口をついて出た私の言葉は、友人とそして私自身を驚かせた。
死ぬ気の覚悟で臨んだ私にもう一度など無いはず・・・。
気が付けば、私はすっかり自分の死の予定を忘れてしまっていた。
そこに到着するまでの行きの道中、自分の死を楽しげに考えていたそれまでの私は、あの時にすでに死んでしまっていたのだ。


 
   
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