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  プ ロ ロ ー グ   始 ま り の 種


 20数年前、寒い冬の日が続いていたその夜、私はなかなか寝付けずにいた。隙間から入ってくる冷たい空気に冷える肩を、温めようと私は毛布と布団を引っ張り上げ、首の周りにピッタリ包んで眠気がくるのを待っていた。
 いつもなら、温まった体は遮断された冷たい空気を感じることもなく、そのうち知らぬ間に眠りに就いている。しかし、その夜は何故だか目が冴え眠れなかった。『なんでかな?おかしいなあ・・・明日も早いのに』そんな風に思いながら、私は何度も寝返りを打っては睡魔の到来を待っていた。
すると、下から階段を昇ってくる足音がして、母が慌てて私の部屋に入ってきた。驚いて「どうしたん?」と聞くと、
「お父さんの様子がちょっと変やねん・・・」と母は不安げに答えた。
「何が変なん?」と聞き返す私に、
「横で寝ているお父さんの体が、ピクッピクッって鈴が鳴るように何度も突っ張るねん」と、母。
 なんのこっちゃ?よく分からないまま私は階段を降りて、父と母が寝ている部屋へ向かった。
部屋を覗くと、父は布団の上に座った状態でこちらを見た。私には、その顔の半分が強張って歪んでいるように見えた。父の話す言葉も、どうやらろれつが回っていない様子。
 母が言うには、最近飲んでいなかったお酒を、今夜は久しぶりに飲んで眠りに就いたらしい。しかも、頂きもののお酒で普段は飲まない種類のものだった。確かに、父の飲み残したお酒の臭いが、台所の流しからプンプンと漂っていた。母が言う、「急性アルコール中毒?」
 いくら久しぶりとは言え、それまで毎晩晩酌をしていた父だ、そんなことで中毒になるほど柔ではない気がした。それに、ろれつが回っていないのも、お酒の酔いのせいではない気がした。何よりも・・・歪んだ顔つきが不自然だった。
 なんだかんだと思案中の私と母の横を、ゆっくりとした足取りで通り過ぎ、トイレに向かい用を足す父。トイレから出てきた後も、自分の布団に自力で戻り何事も無かったように座った。
しかし、やはり顔がオカシイ・・・。どちらかと言うと、普段からイケテナイ顔面の父ではあるが、顔が歪んでさらにイケテナイ不細工なお顔に見える。それに・・・喋り方もやっぱりオカシイ。これもどちらかと言うと、普段から言葉巧みに流暢な喋り方をするわけではない父だが、明らかにろれつの回らない異様な喋り方になっている。
 『このまま様子を見る・・・じゃダメだ!』そう直感的に私は思った。母に「このままじゃ埒が明かんから、救急車呼ぶわ!」と言って、すぐさま119番で救急車を呼んだ。父の様子と家の住所を知らせて電話を切り、救急車の到着を待った。
その間も、ろれつの回らない口調で父は何かを喋っていた。(おそらく救急車を呼んだことへの小言らしきもの・・・)しかし、救急車が到着した時には、父は誘導されるまま大人しく車に乗った。そして、中のベッドに横たわり、いつしか静かに父は眠りに入っていった。

 病院に着いた父は、すぐさまMRIに載せられていた。その横の部屋からは、医師たちの会話の声が漏れ聞こえてきた。「出血・・・」とか「脳内・・・」とか、そんな言葉が私の耳に入ってきた。『これはヤバイ!?』そう感じた私は、一瞬にして頭の中がパニックになり心は不安でいっぱいになった。そして、瞬時に私の脳裏に浮かん
だのは、父の元気な姿だった。
 走馬灯のように・・・とよく言うが、本当にそんな風にクルクルと、私の頭の中を様々な場面での父の表情と姿が廻り過ぎた。走馬灯の中には、私に小言を言うために怒鳴り声で私を呼ぶ父の表情と姿もあった。日ごろは鬱陶しいと思えるそんな父の姿も、この時の私には、父の大切な愛しい一部分に思えた。
 『もしかしたら、もう父の元気な姿を見ることが出来ないのかも知れない』、医師たちの会話を聞いた私はそう思った。そう思うと、日ごろは鬱陶しいはずのあの父の表情と姿が、何故だかやたらと私の頭の中に浮かんでは消えた。そして、どんな場面の父であっても、大切な愛しい父の現れなのだと、その時の私には思えた。
 《どんな父でもいい!生きていて欲しい!!》
そんな痛切な思いと悲しみが、私の心をいっぱいに満たした。
 溢れてくる涙を抑えられない私と家族のもとに、医師がやって来てこう言った。
「ご親戚など呼んでおかれた方がいいかも知れません」
「今夜一晩が大事です・・・覚悟はしておいて下さい」
 初めての体験に医師の言うまま、真夜中にもかかわらず父の兄弟姉妹に電話をかけた。懇意にしている母方の親戚にも連絡を取り足を運んでもらった。今思えば・・・はるばる遠方から親戚を呼ぶほどではなかったようだ。もっと冷静に考えて行動を取るべきだった。(と、体験したあとには思えるんだなあ〜)
 医師の説明では、左脳脳内での出血のため右半身に麻痺が残るかも知れないし、言語の分野にもかかっているので、その辺りの障害があるかも知れないとのことだった。
 確かに、当初は右手を動かして食事をすることが上手く出来なかったし、「みかん」を「豆腐」と言ったり、私を自分の妹の名前で呼んだり、今自分がいる場所を故郷の住所で答えたりしていた。
 実際、意識の無いまま集中治療室にしばらく入り、医師が「親戚を・・・」と思うほど、父の脳内出血はひどかったのかも知れない。でも、結局のところ父は一命を取り留め、病院の人たちでさえも驚くようなスピードで回復し、身体の麻痺も言語機能の低下も目立っては残らなかった。だけど、私は思う・・・このとき父は一度死んだのだと。今後の自分(父)を通し私たちを導くように、そんな崇高なる使命を生きるため、父は神様に導かれ『超人』として生まれ変わったのだと、私には思える。

 《どんな父でもいい!生きていて欲しい!!》という、あの時に沸き起こった感情は、私の中の「鬱陶しいと思える父の姿」をも「大切な愛しい父の一部分」だという認識に変化させた。そしてあの時、私の悲しみいっぱいの心をさらに満杯にしたものは、『もっと優しくしておけばよかった!!』という身を切られるような後悔だった。
それから10年ほど、父は目立って特に障害もなく元気に過ごしていてくれた。それに、私もまだ若く自分のことが精一杯で、刻み込んだはずの父への思いや気持ちを、実践するほどの心の余裕も無かった・・・。
 それでも、確かに、深く刻み込まれていたあの時の後悔は、父に対する私の基本姿勢の「始まりの種」となっていた。
認知症の症状が出始めた頃、『後悔したくない!』という強い思いが、私の中で芽吹いた。そして、父に対してのあらゆることに、「愛」と「感謝」を持って接しよう!そう思わせてくれた。
『もっと優しくしておけばよかった!!』
 それは、自分の内にある「愛」と「感謝」を、相手に表現できていなかった後悔だから・・・。


 
   
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