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  不 殺 生 菜 食 者 に な っ た 理 由

■「不殺生菜食者(ベジタリアン)」になった理由B/『調和した世界の創造』

私たち一人一人がこの世に生まれたということは、・・・すなわち『生命(いのち)』から始まっているということを意味する。
この世の現象体験は全て、『生命(いのち)』があってこそ創造される。
そう『生命(いのち)』の世界、そして『全ては繋がっている生命(いのち)』の世界。

その『生命(いのち)』を『生命(いのち)』とせず、愛無く心無く、物として商品として切り売りし粗末な扱いをする、そういった『生命(いのち)』自体を無視して創り上げた世界は、当然の如くやがては滅びてしまいます。
(これは、『動物』に対するに限ったことではなく、『人間(/自分)』自身に対しても同じことが言える)

「私は生命(いのち)を愛する人、生命(いのち)を生かす人です」の宣言の元、『生命礼拝・生命尊重』の思いで、私は『全ての生命(いのち)が調和した世界』を心に描き(想像し)、「不殺生菜食者(ベジタリアン)」を実践し始めました。

『不殺生』を決意した時から、私は虫を殺さないということも心がけています。
それまでの私は、アリや蚊などが自分の目に映れば何も考えることなく、反射的にブチッと潰したりバチンとやっつけたりしていました。
それら虫たちの存在は、明らかに自分を害する殺すべき『敵』だったのです。
生まれた時からそういったことを疑いもせず、それが当たり前で過ごしてきたのですから無理もありません・・・。

しかし、私は『全ての生命(いのち)が調和した世界』を心に描き(想像し)、虫を殺さず生かすことを意識し実践するようにしました。
『私はあなたたちを害する気持ちは全くありません』と心の中で伝え、家に入ってきた虫たちは生きたまま外に逃がし、喰らいつく蚊には息を吹きかけ遠ざけるなど、やり過ごしていました。

すると、不思議なことに、あれほど憎っくき『敵』だった虫たちのことを、『一個の生命(いのち)』として愛おしく思える私が出現したのです。
虫たちを愛しいと思えた私は、今までに感じたこと無い衝撃を受けました。
それは、虫たちとの共存に【自分の心がいかに平和で穏やかな気持ちに満たされていることか!】という衝撃でした。

何でも『やってみないと分からない!』。
平和な調和した世界を現すには、その『心』を持ってしか現せないことを実感した私でした。
【心に描くこと・想像=創り出すこと・創造】

自分の想念/心が、自分の世界を創り出している。
従って、全ては『自己の責任』である。
生命(いのち)を大事にしない世界、殺し合う世界、不調和な世界、戦争がある世界、不完全な愛の世界・・・・・・・・・・・。
【そのような想念/心を持つ選択をしていたのは、私だったのだ!】
【このような世界を創り出していたのは、私自身だったのだ!】

そう気付いた私は、生命(いのち)を大事にしている世界、生かし合う世界、調和した世界、戦争のない世界、完璧な愛の世界・・・・・を、自分の内に心に描き(想像し)、想念として持ち続ける選択をしたのです。
【自らが光明を発する存在であろう!光となろう!】
【そのような新たな素晴らしい世界を創造し、私は生きよう!】

今から思えば、私は『新たな素晴らしい世界/調和した世界』を創造するため生きるため、「不殺生菜食者(ベジタリアン)」の道を歩むこととなっていたのでした。

★ ★ ★

『全ての生命(いのち)が調和した世界』を創造するため生きるため、私は食の選択を変えました。
『動物の生命(いのち)』に関わる(=殺す・奪う)ことに繋がる肉食一切を、選択肢から外したのです。
ですから、牛・豚・鶏・魚介類・タマゴと言った動物性のものは食べません。

タマゴは無精卵がほとんどで、『生命(いのち)』に関わると言った意味からは外れるのかも知れませんが、私にとって『タマゴ』そのものが=(イコール)『命の象徴』であるという感覚があり、「不殺生菜食(ベジタリアン)」を始めた時から食していません。

ただ、牛乳やチーズ・バターなどの乳製品は頂いています。
商業/工業ベースの飼育法や搾取の仕方、そういった商品としての扱いを受けている動物たちの置かれた現状を考えた時、その一個一個の『生命(いのち)』に対する意味からも、もちろん大きな疑問と大きな憤りは感じてしまいます。
ですが、『与え合う』という意味においての『調和した世界』、私はそこに一筋の愛を見出したいという理想もあって、牛乳やチーズ・バターなどに関しては『分けて頂く』という思いで食しています。

アニメ・アルプスの少女ハイジの中で、ペーターが山羊のお腹の下に潜り込み、寝転びながら直接口の中に乳を搾り出してゴクゴク飲むという姿に、私はなんとも言えない『調和』を感じてしまいます。
そこには人間と動物の『信頼関係』と『愛』、そして『与え合い』と『感謝』の精神があるように感じるのです。

エスキモーや遊牧民などの食生活・食文化を考えた時、『生命(いのち)』を『物』として扱うような、『生命(いのち)』自体を無視した私たちの肉食文化とは違い、彼らの肉食文化には明らかに大きな違いがあると感じています。
極めて限られた食料による、食生活を余儀なくされる地域に住むエスキモーや遊牧民の衣食住文化には、私たちには無い『生命(いのち)』に対しての価値観・意識の違いがあります。

『生命(いのち)』が食べものとなる一連の(屠る)プロセスを、すべて自分たち自身で行い(もちろん家族や子供たち目前で)、保存のきかない内臓を一番先に食べ、更に血液さえも無駄にはしないそうです。
自分たちの『生命(いのち)』が、そういった屠られた『生命(いのち)』に生かされていることを、彼らは目の当たりで感じ食しているのです。
身近なところで『生』と『死』を目撃し、家畜たちの痛みや苦しみを理解した上での食文化の中では、当然『懺悔』の心と『感謝』の思いが自然と培われて行きます。

私たちのようにスーパーやお店を介して、切れ切れとなった肉の塊を『物』として食するのとでは、全く意味合いが違ってきます。
その『物』を通して、業者によって屠られた生きていた『生命(いのち)』があることの実感や、それらの『生命(いのち)』そのものに対しての『懺悔』や『感謝』など、食する本人の内にそれらが自然と湧き起こることを望むのは非常に難しい話です。

エスキモーや遊牧民の肉食文化には、必要以上の無駄な殺生をしない『信頼関係』や、与えられた『生命(いのち)』に対しての『懺悔』や『感謝』など、『調和した世界』が私には感じられます。
『肉食しないこと』=(イコール)『調和した世界』ではないのです。
調和した『その心』こそが、『調和した世界』だと思うのです。

『需要』と『供給』という商業/工業ベースでの肉食の社会文化には、とても『愛』を見出すような要素や『調和した世界』を感じ取ることは出来ません。
実際に、『物』として扱われている『生命(いのち)』たちは、私たち人間に対してずっと警鐘を鳴らし続けています。
動物たちも病気になれば痛くて苦しくて辛いはず・・・、だって私たち人間と一緒の地球に生きる、『同じ生命(いのち)』『等しい生命(いのち)』『尊い生命(いのち)』なのだから・・・。
それにも関わらず、牛も、豚も、鳥(鶏)も、病気という姿になって、私たちのために警鐘を鳴らし続けて来ました。

【もう、これ以上、私たちを食べないでー!!】
【私たちは『生命(いのち)』であって『物』ではないよ!!】
【「愛」を、「調和した世界」を思い出して!】と。

牛舎でも養豚場でも養鶏場でも、病気が発生し蔓延し始めると、元気なものまで処理されて(殺されて)しまいます。
それはやはり、『物』として扱っているから為せる業。
『愛』ある『心』ある人間には、余程の必要性が無い限り、『生命(いのち)』を粗末に扱うことなど本来は出来ないものだと思うのです。
【牛は、豚は、鳥(鶏)は食べ物である】という人類意識が、肉食文化を創り、『生命(いのち)』を殺すことを正当化させているのです。

『需要』があるから『供給』する。
『求める』側がいるから、それは続く・・・のです。
『需要』が無ければ、それらは『供給』されません。

それに、私は思うのです。
エスキモーや遊牧民が、自分たちの家畜の『生命(いのち)』を『愛』をもって屠るように、今は『物』として扱われてしまっている動物たちの『生命(いのち)』を、本来本当に一番愛しているのは、牛舎や養豚場や養鶏場の方々であろうと。
そして、自分たちが『愛』を込め慈しみ育てた子供のような『生命(いのち)』たちを、『生かす』のではなく『殺さなければならない』という矛盾や痛みを一番感じているのも、やはり牛舎や養豚場や養鶏場の方々自身ではないだろうかと。(・・・意識的でも無意識的でも)

『生命(いのち)』は本来、生かし生かされてその個性や特徴を発揮すべきもの。
それが、自然な『調和した世界』。
消費者がいる(需要がある)限り、殺し続けなければならない『世界』は、不自然な『不調和な世界』。
【だから、私はもうやめます!】
殺すこと殺させること、そして肉食文化に参加する消費者になることを!

『調和した世界の創造』の元、私はそういう宣言・選択をしたのです。

★ ★ ★

かつての私も、ハンバーグや唐揚げが大好きでした。
食べて当たり前の『肉』は、私にとって品物/商品であり食べものという『物』でした。
自分を害する殺すべき『敵』・虫たちの話と同様、生まれた時からそれが当たり前で過ごしてきたのですから仕方ありません。
そして何より、私が育った家の価値観の中に、食に対する『生命礼拝』や『生命尊重』の意識は全くありませんでした。

家庭で培われる一人一人の価値観・意識が、その時々の社会を創り出します。
一人一人の価値観・意識が、その時々の社会の構成要素であり、その時々の社会を動かす力です。
『今の社会』を構成するものは、『今の私たち自身の一人一人の価値観・意識』であり、『今の社会の有り様』は、『今の私たち自身の一人一人の価値観・意識の反映』なのです。
【「生命(いのち)」を殺して食べる社会】を創り出しているのは、間違いなく【私たち一人一人の価値観・意識】なのです。

人間によって自己の意思に関係なく強制的に生命(いのち)を絶たれ、『物』となって食されている動物たちの『生命(いのち)』。
この、自己の意思に関係なく強制的に生命(いのち)を絶たれるということ・・・、これは動物たちに限ったことではありません。
人間が人間の『生命(いのち)』を強制的に奪ってしまう『事件/事故』という『殺人』は、毎日のように頻繁に起こっています。
それに、人間は一番近しい愛すべき同類である人間の『子供の生命(いのち)』を、『堕胎/中絶』という形で、実際には毎日非常な数で強制的に絶っています。
人間の思惑や都合で強制的に生命(いのち)を絶っているという現状は、動物に限らず同じ人類の中ででも日常的に行なわれているのです。

そして、ある国では闇で胎児が売買され食されているという事実を聞きました・・・。
『ああ、人間はここまで来てしまったのか!』と、私はショックで愕然としました。
闇の世界での人身売買や臓器売買も然りです・・・。
これは、人類意識が人間自身の『生命(いのち)』をも『生命(いのち)』として見ていない、『物』として扱っている姿勢の象徴です。

私たちは『生命(いのち)』そのものであり、『全てが一体の生命(いのち)』なのです。
それを基本としない『世界』に『調和』はありません。
『調和』とは『愛』です。
『愛』があるとき、そこには必ず『調和』が現れます。
逆に、そこに『愛』を現していないとき、必然的に『不調和』が現れるのです。

私自身、自分を物質的な存在であるかのような振る舞いをして来ました。
『全てが一体の生命(いのち)である』ことを忘れ、動物たちの『生命(いのち)』を平気で喰らい、私は自分自身を傷付けて来ました。
【一体である生命(いのち)を喰らうということは、自分自身を喰らっているということ】
【一体である生命(いのち)を『物』として扱うということは、自分自身を『物』として扱っているということ】

自分自身の『生命(いのち)』)に対し、『愛』を現し『調和』していなかった私でした。
だから私は、『本当の人間(/自分)』としての生きる意味を失い、死ぬことを考え、鬱になってしまいました。
鬱になったり病気になったり、生きている意味を見出せず、死ぬことばかりを考えたり・・・、それは『本当の人間(/自分)』を生きていないから。
『調和した世界』を創造せず、『不調和な世界』を創造している現れなのです。

【心に描くこと/想像 = 創り出すこと/創造】
『調和した世界』と『不調和な世界』、どちらも自分の想念/心で創り出すことが出来ます。
どちらを心に描く(想像する)のか、どちらの『世界』を創り上げるのか(創造)は、自分の選択次第なのです。

『全ての生命(いのち)あるものとの調和した世界』・・・それらを想像(創造)する人/世界には、『生命(いのち)』に関わる悲しい出来事は、きっと起きないと私は思うのです。

だから私は、「不殺生菜食者(ベジタリアン)」となることで『調和した世界の創造』を選択したのでした。



 
   
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