不 殺 生 菜 食 者 に な っ た 理 由
■「不殺生菜食者(ベジタリアン)」になった理由@/『母性』
私はずっと祈っていました。
私たちが住むこの日本を始め、「何故!!どうして!?」そう叫びたくなるような、地球上に溢れる生命(いのち)に関わる様々な悲しい出来事に、「この世が調和した平和な世界になるために、一体私に出来ることは何なのか?」・・・と。
特に、子供たちの生命(いのち)に関わる事件事故を目にするたび耳に聞くたび、私はこの世に生まれて来られなかった子供たち(堕胎中絶児/水子)の思いと、それらの事柄が何らかの形でリンクしているように強く感じられて仕方が無く、それらの生命(いのち)に対してもずっと祈り続け、また「子供の生命(いのち)を守りたい!」とひたすらに祈り続けていました。
しかし、その心に反して、現れ出る悲惨な現状は止む事がありませんでした。
そんな折、私の心を大きく揺るがす衝撃的な事件がありました。
平成16年11月17日、奈良県で小学1年生の女児が殺害されました。
みみかとほぼ同年代の女の子の死でした。
この出来事は、私を「不殺生菜食者(ベジタリアン)」へと歩ませる大きなきっかけとなりました。
奈良県のこの事件に衝撃を受けた私は、こんな現状を変えることの出来ない自分の無力さや、何の役にも立たない自分の祈りを、心の底から嘆きました。
嘆きつつ、それでもやはり私に出来るのはただただ祈ることだけでした・・・。
そして、その1年後。
またしても立て続けに、小学1年生の女児たちの生命(いのち)が失われて行きました。
この時、みみかも同じ小学1年生でした。
どうにも言葉に出来ない悲痛な思いが私の全身を貫きました。
以前にも増して、“生命(いのち)を守りたい!”と何ものかの強烈な思いが、私の心の奥深くを激しく揺さぶりました。
それは・・・私の『母性』でした。
全ての生命(いのち)の母であると思える女性特有の『母性』が、強く激しく慈悲なる愛をともなって、私の全身を貫いたのです。
そんな時、ある友人の一言が、私に「不殺生菜食(ベジタリアン)」を決意させました。
【目の前に来たからと言って、食糧として殺された自分の子供の屍肉を食らう母親はいない!】
・・・そういう言葉でした。
それまで、屠殺される瞬間に牛も豚も涙を流すと聞き、徐々に肉食を減らしてきていた私でした。
でも、「目の前に出されたもの、与えられたものを感謝して食せばいい」と、頂く生命(いのち)に対し感謝を捧げることで、どこか私の心は折り合いを付けてきてもいました。
友人のその言葉は、私の心の中に『ストン!』と入り込み、
『そうだ、本当にそうだ!
全ては一体で一つで同じもの、神の生命(いのち)だった!
「感謝すればそれでいい」そう思っていた私の心は間違っていた!』
と、深い眠りから覚めたような、昔から知っていたはずの事を思い出したような、そんな感覚で私は心底納得したのでした。
そして、
【全ての生命(いのち)は繋がっている!
人間の生命(いのち)だけの問題ではない!
もうこれ以上、生命(いのち)を殺すこと・奪うことを私はやめよう!】
そう決意し、私は「不殺生菜食者(ベジタリアン)」となったのでした。
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